勝新太郎と大喧嘩もした黒澤明監督ってどんな人?数々の受賞作!
こんにちは。
世界の黒澤、大好きめんぼうです。
今の子達は知らないかもしれませんね。
黒澤明監督。
世界の黒澤と呼ばれ、一世を風靡しました。
勝新太郎さんとも交流があったようで、大喧嘩したエピソードは有名です。
勝新太郎と黒澤明さんの大喧嘩!原因は?
もともと、世界の黒澤として君臨していた黒澤監督。
よく調べもしないで、ブラウン管の中から勝新太郎さんを役者に抜擢します。
映画「影武者」の武田信玄とその影武者役、一人二役に勝新太郎さんを抜擢します。
しかし、勝新太郎さんの傍若無人ぶりはとどまるところを知らず。
被写体を徹底して作り込む黒澤明流に対し、カメラワークにまで口を出す勝新太郎さん。
それは、激突するのは時間の問題でした。
79年6月26日のクランクインにまで勝新太郎さんは2週間以上も遅れてやってきました。
その予兆はすでにあったのです。
リハーサルで勝新太郎さんは用意されたセリフを言わないのです。
俺は、こう言いたいんだと、王様ぶり発揮!
黒澤監督が何回注意しても治りませんでした。
そして、そのときは起きたのです。
朝から機嫌の悪かった勝新太郎さんは、「自分の演技を確認したいからカメラを回す」を言い張り、黒澤監督に直談判します。
しかし、意図を理解した黒澤監督は勝新太郎さんに「余計なことをするんじゃない」と一喝します。
これを受けて、勝新太郎さんは激怒!
かつらは引きちぎるわ、衣装は脱ぎ捨てるわでワゴン車に乗り込んでしまいます。
そこで、スタッフがなだめにかかるのですが、埒が明かない。
とうとう、黒澤監督が話すことになります。
黒澤監督は、冷静に「勝君がそうならやめてもらうしかない」と言います。
そうすると、勝新太郎さんはまたまた激怒し、黒澤監督につかみかかろうします。
そこをスタッフがそれはいけないと、羽交い締めにして制します。
このことは、マスコミに伝わり、翌々日に会見することになります。
参考:「黒澤明」参謀が明かした「勝新太郎」と大喧嘩の一部始終
黒澤明監督ってどんな人?
1910年生まれの人ですので、僕もなんとか知っている感じです。
今の若い人たちは、全然知りもしないでしょう。
そこで、黒澤明監督ってどんな人?
調べてみました。
黒澤明監督のプロフィール
『自分の人生経験だけでは足りないのだから、人類の遺産の文学作品を読まないと人間は一人前にならない』黒澤明 pic.twitter.com/VLnMqglc5S
— 失敗者bot (@shippaisya) February 4, 2020
黒澤明 (くろさわあきら) |
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生年月日 | 1910/3/23 |
年齢 | 88歳没 |
出生地 | 東京府荏原郡大井町 (現在:東京都品川区) |
死没地 | 東京都世田谷区成城 |
職業 | 映画監督・脚本家 |
エピソードなどを見ていると、天皇のように君臨はしていましたが、性格は紳士的です。
映画を作るときなどは、真剣ですから怖いイメージがありますが、先程の勝新太郎さんのエピソードなどを聞いても、紳士ぶりが伺えます。
黒澤明監督の経歴
ここで、黒澤明監督の経歴を見てみましょう。
1936年:P.C.L.映画製作所に入社
1943年:監督デビュー
1948年:映画芸術協会を結成。
1951年:『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、アカデミー名誉賞を受賞。
1959年:黒澤プロダクションを設立、『隠し砦の三悪人』でベルリン国際映画祭監督賞を受賞。
1969年:四騎の会を結成。
1975年:『デルス・ウザーラ』がアカデミー外国語映画賞を受賞。
1985年:映画界初の文化勲章を受章。
1989年:アカデミー名誉賞を受賞。
1998年:国民栄誉賞、従三位授与(没後)。参考:ウィキペディア
数々の栄光ある賞を受賞し、最後には国民栄誉賞まで受賞しています!
黒澤明数々の受賞作品!
それでは、ここで黒澤明監督の作品について見ていきましょう。
黒澤明監督の作品 | ||
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受賞 | 作品名 | 年代 |
※ | 姿三四郎 | 1943年 |
※ | 一番美しく | 1944年 |
※ | 虎の尾を踏む男達 | 1945年 |
※ | 續姿三四郎 | 1945年 |
※ | わが青春に悔なし | 1946年 |
※ | 素晴らしき日曜日 | 1947年 |
※ | 酔いどれ天使 | 1948年 |
※ | 静かなる血糖 | 1949年 |
※ | 野良犬 | 1949年 |
ヴェネチア国際映画祭 サン・マルコ金獅子賞(1951), アカデミー賞名誉賞(1951) ほか受賞多数 |
羅生門 | 1950年 |
※ | 醜聞 (スキャンダル) |
1950年 |
※ | 白痴 | 1951年 |
ベルリン国際映画祭 ドイツ上院陪審賞(1954) ほか受賞多数 |
生きる | 1952年 |
※ | 七人の侍 | 1954年 |
※ | 生きものの記録 | 1955年 |
※ | 蜘蛛巣城 | 1957年 |
※ | どん底 | 1957年 |
ベルリン映画祭銀熊賞・ 監督賞・国際評論家連盟賞(1959), ブルーリボン賞(1959) |
隠し岩の三悪人 | 1958年 |
※ | 悪いやつほどよく眠る | 1960年 |
ヴェネチア国際映画祭 主演男優賞 ; ブルーリボン賞(1961年) 他受賞多数 |
用心棒 | 1961年 |
※ | 椿三四郎 | 1962年 |
※ | 天国と地獄 | 1963年 |
※ | 赤ひげ | 1965年 |
※ | どですかでん | 1970年 |
アカデミー賞最優秀 外国語映画賞(1975) |
デルス・ウザーラ | 1975年 |
カンヌ国際映画祭 パルムドール, 英国アカデミー監督賞・ 衣裳デザイン賞, ブルーリボン賞, セザール賞 (1980年)など受賞多数。 |
影武者 | 1980年 |
アカデミー衣裳デザイン賞 (ワダ エミ), 全米批評家協会作品賞・ 撮影賞, NY批評家協会外国映画 賞, 他多数受賞 [ |
乱 | 1985年 |
※ | 夢 | 1990年 |
※ | 八月の狂詩曲 | 1991年 |
※ | まあだだよ | 1993年 |
そして、最後に1998年、国民栄誉賞を受賞しています。
まとめ
黒澤明監督が生きた時代は、まさに戦後です。
このころは、まだ映画監督なんて地位も名誉もありませんでした。
映画監督が社会的地位を得られるようになったのも、黒澤明監督のおかげと言えます。
やっぱり、食べるだけじゃなくて、映画のような文化も必要です。